ポルトガルの首都は人口200万人(周辺の地域を含む)を有するリスボンです。リスボンの誕生は2000年以上もの昔にさかのぼります。それゆえ、近代的、国際的な町並みだけではなく、狭い路地に中世の建物が並ぶリスボン特有の町並みも残っています。そこでは、古い家々が由緒ある宮殿や壮大な教会のすぐ横に並んでいます。また、リスボンはさまざまな国際的な催しの舞台であり続けてきました。1998年には、「海洋―未来への遺産」をテーマに、20世紀最後の国際博覧会が開催されました。
ポルトガル第二の都市はポルトです。ポルト一帯の地域は、中世より非常に重要な地域として位置づけられてきました。ポルトガルの国名の由来である一帯の伯領「ポルトゥカーレ」はこの地域にありました。ドウロ川の河口に位置するポルトの歴史地区はユネスコの世界遺産に指定されています。ポルトは、街の名前がつけられているワインとともにその名声を高めました。現在、独特の特徴に恵まれた街並みは、ビジネスと文化のダイナミズムによってさらに高めています。
コインブラはヨーロッパで最も歴史のある大学都市のひとつです。学生の黒マント、コインブラに特有のファド、有名な儀式「ケイマ・ダ・フィタス(リボンを焼く儀式)」など、何世紀にもおよぶアカデミズムの伝統を維持してきています。大学は、街の中で最も高い場所に位置しており、有名な塔や貴重な書籍や歴史的な原稿が所蔵されていながら、テクノロジーの中心部の役割も果たす、バロック式の荘厳な図書館などが構内にあります。
ブラガは紀元前3世紀ごろ、ケルト人によって築かれた街です。ローマによる統轄の時代には行政の中心地であり、後にモウロ人の支配を受けていた9世紀頃にはキリスト教徒の要塞となりました。今日、ブラガは(国の最も重要な輸出産業のひとつである)繊維をはじめとする産業の拠点です。また、かつては宗教上の中心地であり、国で最も古いカテドラルがあります。
内陸部にはビゼウという街があります。この街の起源を遡るとカストロ文化とのつながりが確認されます。その後ローマの支配下に入ると、ローマ人たちの街道の接続点として重要な位置を占めることなりました。ビゼウを語るのにビリアトという人物を忘れてはなりません。ポルトガルの英雄の一人、ビリアトはこの地方で生まれたと考えられています。ローマ人たちがイベリア半島を占領してから後、6世紀の西ゴート人による占領が続き、やがて都市部というものが生まれてきました。8世紀にはその他のイベリア半島の大多数の集落と同じくムスリム人の支配を受け、レコンキスタ運動が始まるとキリスト教徒とムスリム人たちの激戦の地となりました。15世紀になると、ビゼウは親王エンリケ航海王子に与えられ、そのため王子は「ビゼウ公爵」の称号も譲られました。16世紀に入った1513年、国王マヌエル1世はビゼウの特許状を刷新し、その結果ヴィゼウは短期間で飛躍的に発展しました。この地域のさまざまな教会や大聖堂近くのグラン・バスコ美術館に多数の作品が収蔵されているポルトガルの高名な画家、バスコ・フェルナンデスが活躍したのはこの時代のことでありました。
エボラは、ローマ帝国時代はエボラ・セラリスという名前でした。その後シーザーの時代にはリベラリタス・ユリアという名になりました。当時からすでに重要な都市であったことは神殿跡やすばらしい城壁跡からもうかがわれます。1165年にジェラルド・セン・パボールによってモウロ人の支配から奪回されたと同時にエボラ司教区は復活しました。長い間国王の居住地であり、主にジョアォン2世からマヌエル1世、ジョアォン3世がエボラに住みました。エボラは、この街の初めての大司教、枢機卿エンリケ王子によって大司教座が置かれ、エボラ大学が創設(イエズス会に委ねられた)された16世紀に特に有名になりました。エボラ大学はポンバル侯爵によるイエズス会迫害によって1759年に消滅し、復興されたのは2世紀も後のことでありました。エボラの町にはさまざまな建築様式がのこされており、長い時間をかけて多くの美術品も集まりました。それにより、1986年にユネスコより世界文化遺産に認定されることとなりました。
ファロは、大陸ポルトガルの南部、浜辺で有名な地域アルガルヴェにある都市です。街には中世に建てられた城壁やさまざまな歴史的建造物、博物館があります。花崗岩で建てられた宮殿やローマ時代の遺跡のほか、白い外壁と丹精に色づけされた屋根の家々によって彩られた光景が広がる美しい街です。
マデイラ島のフンシャルに人が住み始めたのは1424年、島が二人の軍事指揮官によって分割されたときのことでした。フンシャルはジョアォン・ゴンサルベス・ザルコの管理の下におかれ、彼の一族がここに住むことになりました。 1452年から1454年に初めての特許状が発行され、その結果村から司教区となりやがて1508年には市になりました。 地理的条件が整い、よい港や豊かな土壌に恵まれ、フンシャルは早くからマデイラ島の発展の要の地となっていきました。フンシャルという名前は開拓前のその地域から海辺一帯に群生していたフンショという香草に由来しています。 数ある歴史的建造物の中でも、特筆すべきは1489年と1496年にイスパノ・アラブ様式で建てられたサンタ・クララ教会とサンタ・クララ聖堂、16世紀前半建築のサン・ロウレンソ要塞宮殿であり、また、マヌエル1世の命でペロ・アネスが設計したセ・カテドラルには島の木材で造られた国内有数の美しい天井があり、さまざまな建築様式が混在しています。フランドル様式、ゴシック様式の線を持ちながらマヌエル様式の特徴をもあわせ持つこのカテドラルが完成した1514年、フンシャルは司教区として認定されました。そのほかの重要な建築は、司教の宮殿、総督の宮殿、フンシャル市役所、バルタザル・ディアス劇場、クルーゼス美術館、市立美術館、アルテ・サクラ美術館などです。イリェウとピコの要塞は、しばしばさらされた海賊の攻撃を阻止するために整った防衛体制が必要だったことをうかがわせる歴史的なモニュメントです。
ポンタ・デルガーダはアソーレス諸島の行政の中心地でしたが、1546年4月2日、ジョアォン3世の治世時にアソーレス諸島に2番目の市を造るようにという国王の書簡により市として認定されました。ポンタ・デルガーダはサン・ミゲル島にあります。その後、市は発展を続け、移住が始まってから500年以上の年月が過ぎた今日、ポンタ・デルガーダには6万5千人以上の住民が住んでおり、諸島の中心地になりました。さまざまな機関の集まる都市となったポンタ・デルガーダの浜は、今また「ポルタス・ド・マール(海への扉)」開発プロジェクトが進行しています。地下にさまざまな公園が造られ、カジノや新しい商業施設、大講堂、映画館などが開かれるなど、さまざまなナイトライフの楽しみが提供されてきています。 「ヴィジット・ポルトガル」
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